峰守雑記帳

小説家・峰守ひろかずが、見聞きしたことや思ったことを記録したり、自作を紹介したりするブログです。峰守の仕事については→ https://minemori-h.hatenablog.com/

「能登半島ふしぎ話チャリティ・トーク in 石川県 第2回(6月8日開催)」登壇のおしらせ

 2024年6月8日(土)に石川県立図書館で開催されるトークイベント「能登半島ふしぎ話チャリティ・トーク in 石川県 第2回」に、僭越ながら参加させていただくこととなりました。

www.library.pref.ishikawa.lg.jp

 

 トークテーマは泉鏡花や金沢の妖怪や伝承などなど。

 登壇者は、本イベントの主催者でありホラー・怪談作家の田辺青蛙様、文芸評論家でアンソロジスト東雅夫様、お笑い芸人で実話怪談にもお詳しい松原タニシ様、それと私です。

 上の画像にもありますが、開催日時は2024年6月8日(土)14:00~16:00、参加費は1,000円(当日現地にて現金払い)で、いただいた参加費は全額日本赤十字社に令和6年能登半島地震災害義援金として寄付されます。参加定員は140名で、事前申込制・先着順です。↓のリンクから申し込めます。皆様のご参加をお待ちしております。

 

 怪談やトークのプロの方がおられる中で喋りの素人のお前が何を話すんだ、という気はしますが、金沢をネタにした話を何作か書かせてもらった身としては、チャリティという形で少しでも貢献できるなら……ということで、ありがたく末席に加えさせていただきました。

 一応、金沢を舞台にした妖怪ものを書いたり、その資料を集めたりした時の経験を踏まえ、土地に伝わる新旧の怪談奇談妖怪譚の幅広さや特徴、現地探訪時のエピソードなどなどを、写真や図版を交えつつお話しできればと思っております。

 なお、先日(4月21日)に開催された第一回目は一聴講者として楽しませていただきまして、「金沢の誇る魔境(の一つ)であるところの黒壁山が鏡花の『高野聖』の舞台のモデルなんじゃない?」という話は、まさしくそういう話を書いた作家としては思わずガッツポーズでした。

 一回目の感じを見ると地元の方が多そうでしたが、地元に詳しい方もそうでない方も楽しめるようなネタを考えていますので、遠方の方も金沢観光のついでにお立ち寄りいただければ幸いです。会場の石川県立図書館はGフォース本部なんかを思わせるかっこいい建物なので一見の価値ありですよ。

新宿の妖怪学(や東映ヒーロー)の聖地などを回ってきました

 先日、久々に上京する機会があったので、新宿方面の妖怪がかったスポットをピンポイントで回ってきました。

 まず最初に行ったのは全勝寺

 四谷三丁目駅から歩いて十分ほど、古い住宅街の中にあるお寺です。

 このお寺にはこういう伝説が残っております。

四谷杉大門の全勝寺に一切経の倉庫があつて、お経ばかりでなく、多様多種の書冊(※本のこと)が納めてあつた。そして誰にでも貸してくれる。借覧者は返還する際に、必ず何なりとも一冊子を寄附する例で、ほとんど図書館の体裁をなして居た。(中略)昔は経蔵の施主本姫(ほんひめ)様といふ女性が、一切経を二度まで通読したほどの読書家で、自己の遺体を瘞埋(えいまい)した上にこの書庫を建てさせ(以下略)
(「大名生活の内秘」より)

 古文なので分かりにくいところもありますが、要するに、昔、大変な読書家だったことから『本姫(ほんひめ)』と呼ばれたお姫様が若くして亡くなり、その蔵書がこのお寺に収められた、という話です。

 その本は図書館のように誰でも借りることができたが、返す時は一冊別の本を寄贈しなければならないという決まりがあり、本を返さないとお姫様が督促に来る……という、怖いんだか怖くないんだか微妙な伝説とセットで語り残されています。

 江戸時代に公共図書館的な仕組みがあったらしい、あと返さなかった時のペナルティがだいぶヌルい(元図書館員としては一軒一軒督促に回る辛さはよく分かりますし、お姫様は祟るとかしてもいいと思います)あたりが味わい深くていいですね。

 新宿の住宅街のど真ん中という舞台も合わせて好きな話でして、これを元ネタにしたのが拙著「新宿もののけ図書館利用案内」です。

 上記の書庫は時代を経て妖怪や幽霊専用の図書館として続いていた……という設定で、館長の本姫様に館長代理を押し付けられた若い化け猫が、人間の司書を雇って二人三脚で頑張る大都会ほっこり人情ものです。2巻まで出ておりますのでよろしくお願いいたします。ちなみにこの本、なぜか新宿歴史博物館(良い博物館です)には郷土資料扱いで所蔵されています。ありがたいことです。

 あと、この全勝寺、四方を建物に囲まれてる上、入口が一見すると民家にしか見えないのでかなり分かりにくいです。ご注意を。

 実際に行ってみても本姫様ゆかりの何があるわけでもないですが、新宿歴史博物館(良い博物館です)に行く途中に寄るとちょうどいい位置なので合わせて巡るコースがおすすめです。

 

 さて、ここからが今回の本題。

 井上円了(以下文中の敬称略)という人がいます。というか、いました。戦前に活躍した仏教哲学者で、東洋大学創始者として有名ですが、その界隈では「妖怪学」の人として知られています。

 妖怪学というのは、科学的啓蒙精神に則って妖怪(※ここで言う「妖怪」は占いや伝説を含む迷信全般を指します)の正体を暴く学問のことで、これの提唱者であり代表者が円了です。

 円了の妖怪学を扱った著作は色々ありまして、総論的な「妖怪学講義」が多分一番有名ですが、個人的には「この話はこういう理屈で否定できる! はい次!」という一題一答形式で具体的な事例をズバズバ切っていく「妖怪玄談」「妖怪百談」あたりが好みです。

www.aozora.gr.jp

dl.ndl.go.jp

 各パートが短いので比較的読みやすく、ネットでも読めるのでご興味おありの方はぜひぜひ。

 まあ、妖怪を基本的に否定し、その手の話を信じる人を無慈悲に論破していくスタンスについては、妖怪好きとしては相容れないところもありますが、そういう姿勢の人も時代的に必要だったんでしょうし、事例をこれだけ集めた点は素直に凄いと思えます。

 また、この円了的な姿勢へのカウンターとして、「いや、『いるかいないか』じゃなくて、何でそういう話が生まれて残ったのか考えようよ、そのために記録しようよ」という立場の柳田国男が現れて妖怪伝承を集め、その成果が戦後になってようやく本にまとめられ、それがちょうど「鬼太郎」をシリーズ化せんとしていたタイミングの水木しげるの手に届いたことで「実在の伝承をキャラとして取り入れていく」という戦後妖怪もののフォーマットが生まれ、さらに鬼太郎が息の長い作品になったおかげで私が去年ノベライズの仕事で印税を頂いて……という流れを思うと(このくだり、かなり強引に端折ってますので、詳しく知りたい方はちゃんとした本を読んでください)、妖怪史的にはめちゃくちゃ大事な人であり、個人的にもお世話になっているのだなあと言わざるを得ないわけです、円了先生。

www.poplar.co.jp

 

 で、前置きが長くなりましたが、この円了先生が自身の哲学的理念を反映させて作った公園が、新宿は中野にある哲学堂公園

www.tetsugakudo.jp

 公園の案内を見てもらうと分かるんですが、「無尽蔵」とか「理想橋」とか、施設のネーミングがいちいちかっこいいんですね、ここ。

 特に書庫の名前である「絶対城」は、「あらゆる書物を集めて読み尽すことで人は『絶対』の境地に至れる」という由来も込みで大変にクールかつロックで、一応わたくしの代表作であるところの「絶対城先輩の妖怪学講座」の主人公の「絶対城」という名前はここから拝借しております。「妖怪学」も勿論円了のそれがベースになってます。

 ちなみに「絶対城先輩の妖怪学講座」は、円了由来の妖怪学を修める変な学生が、仲間とともに妖怪伝承の正体を暴いていくという全十二巻の伝奇連作です。先日合本版も電子書籍で出ましたので、ご興味おありの方は宜しくお願いいたします。

 今回宣伝が多いな。

www.kadokawa.co.jp

 本物の絶対城がどういう施設なのかは後述するとして、まず入口から。

 ここの入口である「哲理門」の中には、唯心論(精神)の象徴たる幽霊と唯物論(物質)の象徴である天狗の像が鎮座しています。

「絶対城先輩」の主人公の相棒が「湯の山礼音」(苗字と下の名前を繋げると「ユーレイ=幽霊」)と「杵松明人」(「天狗=アマツキツネ」のアナグラムがベース)の二人なのはこれが由来です。

 現在の公園の門にある像は彩色されたレプリカで、オリジナルの像は保存のために哲学堂公園近くの中野区歴史民俗資料館に所蔵されているんですが、今ちょうど(4月14日まで)公開されております。というかそもそもそれを見に行ったんですよね、今回。

 というわけでこれが円了発注のオリジナルの天狗と幽霊の像です。コワイ!

 


 画像がボンヤリしているのは展示室がかなり暗く光量が少なかったためです。同館の公式アカウントが見やすい写真をアップしてくださってたのでそっちも貼っておきます。

 二、三分いたら目が慣れてきてかなり見えるようになりましたが、暗い部屋で腕を組んで無言でジーッと幽霊を眺めてるおっさんは、こわごわ入ってきた小学生の兄弟にはかなり不気味に見えたことと思います。実際ビクッとされました。

 こわくないよ。おじさんは幽霊の歯や天狗の足の爪を凝視していただけだよ。

 

 閑話休題哲学堂公園探訪記の続きに戻ります。

 天狗と幽霊が陣取る哲理門をくぐると広場がありまして、その向こうに見える白い建物が「絶対城」です。

 城というネーミングにもかかわらず箱めいたシンプルな形状、天井に延びる梯子のデティール、木々の中に真っ白の建物がドンとある佇まいの面白さ! 美人な建物だなあ! と来る度に思います。今回も思いました。

 近くにはベンチもあるので、公園入口にある昔ながらの佇まいの売店で煎餅とコーヒーなど買った上でベンチでのんびり眺めると贅沢な時間が味わえます。ビールとか売ってるとなお嬉しかった。

 

 で、この絶対城がある広場には「時空岡」というクールな名前があるんですが、絶対城の他にも色々な建物があり、それぞれ「三學亭」「六賢台」「四聖堂」「宇宙館」「無尽蔵」と名づけられています。(上の写真で言うと右の塔が六賢台、左の建物が四聖堂)

 どれも名前がイカしますね。「絶対城先輩」シリーズがライバルが続々登場するバトルものだったら「宇宙館後輩」とか出てきてたと思います。「理想橋」と「無尽蔵」は多分ラスボス候補。

 この公園、広場以外にも池やら岡やら橋やらと盛りだくさんで、タヌキや鬼を模したオブジェ(燈台)なんかもありますし、それぞれにちゃんと哲学的な意味もあるので大変奥深いんですが、全部紹介するとキリがないので気になった方は公式の案内をご覧ください。

 

 

 まあ、いちいち哲学的な意図を読み解かなくとも、結構広くて高低差もある公園ですから普通に歩き回るだけでもどんどん景色が変わって楽しいですし、いい運動にもなります。

 実際、運動に向いてる公園だと思うんですよね哲学堂公園。ランニングもできますし、身体を動かす広場もある。

 で、ここを日々のトレーニング場に使っていた武道家として知られるのが、山地闘破、またの名を戸隠(とがくれ)流正当・磁雷也。そう、世界忍者戦ジライヤの主人公ですね。

 この哲学堂公園、「ジライヤ」ではトレーニングするシーンでよく出てきます。

 主人公の闘破が兄弟弟子のケイや学と公園内の川沿いの道をランニングした後、先述の時空岡の広場で稽古をしていると、知り合いの世界忍者が訪ねてくる……という場面が何度かあります。

 具体的に言うと31話「パリで見つかった武田信玄の愛刀」では、異形忍紅トカゲ(いぎょうにん・べにとかげ)が、44話「磁雷神大爆破!!戦場の父と娘」では、爆忍(ばくにん)ロケットマンが、ここで稽古中のジライヤたちと再会しています。頭がとんがった世界忍者がよく来る公園だと言えましょう。

 個人的には、44話で哲理門にギリギリのところで引っかかりそうで引っかからないロケットマンの頭頂部が見どころだと思います。

 というわけで「ここで紅トカゲが磁光真空剣の威力を見せてくれとせがんだのか……!」とか感動して帰ってきたんですが、帰宅後に調べたところ、ジライヤ一家の自宅であるマンション(として使われたロケ地)もすぐ近くにあったことを知りました。

ameblo.jp

 あんなに近くにあったのか武神館!

 つまり哲学堂公園は作中設定的にもリアルに主人公たちの家の最寄りの公園だったわけで、トレーニング場に使うのも納得です。マンションも見てくりゃ良かった。

 

 なお哲学堂公園に来た東映ヒーローはジライヤだけでなく、「アクマイザー3」の三人も訪れています。

 28話「なぜだ?!恐怖のテングあやつり」では、その回の怪人であるアクマ族・オニテングの本拠地がここの地下にあったという設定で、クライマックスのバトルが哲学堂で繰り広げられます。

 まず、アクマイザー3の三人であるところのザビタン・イビル・ガブラが

「ザラード!」「イラード!」「ガラード!」

「「「唸れジャンケル! アクマイザー3!」」」

 の名乗りをあげたのがこの三學亭。

 神道平田篤胤儒教林羅山、仏教の釈凝然を祀った三角形の東屋で、ちょっと小高い位置にあり、三人組のヒーローが名乗るのに相応しいロケーションとなっております。

 続いてザビタンは六賢台(荘子朱子、龍樹、迦比羅仙、聖徳太子菅原道真を祀った建物)の前でアグマー兵(戦闘員)と戦い、四聖堂(孔子、釈迦、ソクラテス、カントを祀った堂)前でオニテングと戦った後、さらに宇宙館(講義室)の屋根に飛び乗って(!)アグマーに応戦、さらに絶対城の前で待ち受けるオニテングに切りかかる!

 一方イビルは四聖堂の縁側でアグマーと戦ってから手前の広場に移動! そしてガブラは絶対城の向かいのベンチで戦闘員と応戦した後、無尽蔵の前でリミッターを解除してデンブル(鉄球)を振り回し、その後再びザビタンにカメラが戻って、ザビタンとオニテングが三學亭前の広場で宇宙館と絶対城を背景に切り結ぶ! というフルコースぶりで、時空岡をフルに使っているため、当時の様子がよく分かります。

 というか当時は宇宙館の屋根に乗って良かったんだ。

 鬼と天狗の像がある場所に「オニテング」が陣取っているというのもなかなか興味深いですし、井上円了「行く道一つただ一つ、これがわれらの生きる道」(アクマイザー3主題歌「勝利だ!アクマイザー3」より)みたいな生き方の学者だったので、ある意味アクマイザーの三人に相応しいロケーションだったと言えるかもしれませんね。知らんけど。

 で、このアクマイザーの哲学堂ロケ、ネットで見て回っても言及してる人が少なくてですね。

 とはいえロケ地探訪ブログをアップしてる方もおられまして。

showalocations.blog.fc2.com

 たいへん詳しく紹介されていたので、やはり気付く人は気付くんだなあ……と思って読み進めていくと、この公園がアクマイザー3に使われていることは、小説家・峰守ひろかずさんのツイッターで知りました」のこと。僕やんけ。世界の狭さを感じました。

 というわけで後半は妖怪学ゆかりの地というより東映ヒーローロケ地探訪記になってしまいましたが、哲学堂公園に行ってきましたよ、という日記でした。

 

 ちなみに井上円了のお墓は哲学堂公園のすぐ向かいにある蓮華寺にありまして、せっかく来たので拝ませてもらってきました。

「井」「円」を象ったアバンギャルドな造形が「これは井上円了の墓です!」と全力で主張しており、強さを感じました。いつもお世話になっております。

金沢の書店さんと、あと金沢の妖怪スポット巡ってきました(金石編)

 先日、新刊「少年泉鏡花の明治奇談録 城下のあやかし」が発売されまして、本作の舞台である金沢近隣の書店さんを回ってサイン本など作らせてもらってきました。

www.poplar.co.jp

 

 まずこちらは金沢ビーンズ明文堂書店さま。

日本最大級の書籍専門館|金沢ビーンズ-明文堂書店金沢県庁前本店

 立派なコーナーに加え、鏡花の経歴のここにフィクションをねじこんでいるぞ!という分かりやすいパネルも作っていただいております。大変品揃えのいい大型書店さんで、個人的に色々買い漁ってきました。

 

 つづいて明文堂野々市店さま。入ってすぐ、新刊コーナーの目立つところに置いていただきました。ありがたい!

金沢野々市店|店舗情報|明文堂書店|TSUTAYA明文堂

 

 そして香林坊の東急にある「うつのみや」金沢香林坊店さま。

うつのみや金沢香林坊店 | うつのみや

 ここは新刊以外の予言獣大図鑑や同人誌「私家版金沢妖怪事典」まで並べていただいており、足を向けて寝られません。ポプラ社の営業の方も一緒だったんですが、同人誌の納入の話をして、しかも同人誌に延々サインする時間も取っていただきまして、ほんとありがとうございます。

 なお同人誌「私家版金沢妖怪事典」は、こちらの香林坊店と金沢駅構内の百番街店さんで販売中のはずです。現在、私のほうでは通販は行っておりませんので、お求めの際はそちらをご利用くださいませ。

 

 あと、ここは金沢ではないですが、私の地元の滋賀県高島市の平和書店あどがわ店さまの地元作家コーナーにもドカッと並べていただいてましたので、あわせて紹介いたします。

平和書店 あどがわ店 | ダイレクト・ショップ

 新刊に加え、同レーベルの「今昔ばけもの奇譚」「金沢古妖具屋くらがり堂」シリーズ、さらには結構前の「学芸員・西紋寺唱真の呪術蒐集録」や「うぐいす浄土逗留記」もあるのが嬉しい限り。

 写真には載ってないですが色紙も飾っていただきました。場所は道の駅のはす向かいで、郷土資料も充実してるお店なので、行楽のついでなどに立ち寄るのもおすすめです。

 

 閑話休題

 というかここからが本題です。

 これまでも金沢に来る度に妖怪がかった場所を巡ってきましたが(こちらが前回の記録です)、性懲りもなく今回も行ってきました。

 今回の目的地は金石(かないわ)エリア!

 金沢市中心部から見て西方向、海に面した地区である金石は、1943年に金沢市編入された地域です。そもそも私が金沢の妖怪を集め始めたのは「少年泉鏡花の明治奇談録」のネタ探しのためで、この作品の舞台である明治時代には金沢じゃなかったんですが、今の基準でリストアップしたおかげで「私家版金沢妖怪事典」にはしっかり入ってます。

 できればじっくりウロウロしたいところですが、余り時間も取れなかったので、場所を特定できるところを三か所だけピンポイントで回ってきました。

 さて、これまでの記事でも書きましたが、この手の妖怪現地探訪って当てが外れることが基本です。

 話の舞台とされてる場所や施設には実際は何も残ってないし、話を聞いてみても「そもそもそんな伝説は知らない」とか「伝説があるのは知ってるけど、うちには何もないですよ」と言われるパターンがまあ多い。

 なので今回も正直そんな期待せずに行ってみたんですが……すみませんでした。金石は凄かった。

 結果から先に言ってしまうと、訪問先の三か所全部に何かしらが残っており、話もしっかり伝わっていました。さらにこっちが知らないネタまで見つかったので、妖怪残存率133パーセントということになります。すごいぞ金石!

 

金刀比羅神社

 海のすぐ近くにある小さな神社です。

「私家版金沢妖怪事典」にはこの神社の名前は出てきてないんですが、このあたりにはこういう話が伝わっております。

 秋葉神社(金石西)と向かい合って建つ延寿寺の鏑木氏の家には、「狐の飯蓋(めしかい)」という、小さくて鉛色をした石のような硬いものが伝えられている。

 これは元和二年(一六一六年)、修行の旅に出た延壽寺二代目の秀船坊が、ある雨の夜に九州で出会った白狐から譲り受けたもの。狐が「私のこの飯蓋(飯茶碗)は不思議な力を持っている、命より大事なものですが、貴僧のそれ(傘)と取り替えてほしい」と頼み込んだので、秀船坊は傘と飯蓋を取り替えて金石へと持ち帰った。

 その後、飯蓋を手放して神通力を失った白狐は飯蓋を取り戻そうとして、何度も鏑木家の天窓から忍びこもうとしたため、秀船は天窓を閉ざした。これ以来、鏑木家では天窓を開けることはなく、改築しても天窓を設けなくなった。飯蓋は狐の祟りを恐れて床下深くに埋められたという。
(「北國新聞」昭和五年七月二十三日より)

 白狐が何をしたいのかよく分からないし、飯貝がどういうものなのか(茶碗なのか石なのか?)もよく分からないという、つかみどころのない話です。

 正直、行く前から、ここは何もないだろうなーと思ってたんですよね。何せ、地図で見ると、金石西の秋葉神社の向かい側にお寺なんか無いんです。

 で、実際に行ってみてもやっぱりない。あるのは金刀比羅神社という神社だけ……だったんですが、社務所兼ご自宅の表札が「鏑木」さんだったんですね。

 話に出てくる家と同じ名前で、ついでに言うと、ざっと拝見する限り、家には天窓の類もない。これはもしかして……と思って神社の方に尋ねてみると、ビンゴでした。

 こちらの金刀比羅神社、元は延寿寺というお寺で、しかも狐の飯貝(※私の「金沢妖怪事典」では「飯蓋」と表記しましたが、神社の方は「飯貝」の字を使われてました)の話もこの家に確かに伝わっているとのこと。ワオ! 

 さらに聞くと、この地域にはそういうことに詳しい方もいるし、詳しく書いた本もあるが、その本は今ちょっとどこにあるか分からんのよ……とのことだったので、「じゃあ図書館で探してみます、ありがとうございました」とお伝えして、名詞もお渡しして神社を後にしたんですが、そのニ十分後くらいに神社から電話がかかってきたわけです。

「さっき言ってた本があったが、私はもうすぐ出かけなあかん」「今すぐ来られるか?」とのこと。そんなこと言われたら行くしかないわけで、雨の中(当日はまあまあ悪い天候でした)を、折り畳み傘を構えながらダッシュしまして、そこで見せてもらったのが「能登の宗教・民族の生成」という本でした。

 

 こちらに掲載されている鏑木紀彦さんの「能登国石動山大蔵坊の里修験 ―加賀国宝光院(延寿寺)の事跡から―」によると、延寿寺はもともと修験道の道場だったのが江戸時代中期に延寿寺と改称、明治元年神仏分離令により延寿寺は金刀比羅神社になったが、今も修験的な性格を持っている、とのことでした。なるほど!

 つうか、ということは「狐の飯貝」の記事が新聞に載った昭和五年だったら、とっくに延寿寺は金刀比羅神社になってたはずで、なんで記事には古い名前で載せてるんだよ!とは思いました。

「狐の飯貝」自体については、私が見たのと同じ記事を引用されていただけだったので情報量は増えることはなく、飯貝が実在するかどうかにも触れられていませんでした。ちょっと残念。

 しかしさすがに地元の専門家の文章だけあって周辺情報が詳しく補足されており、説話の設定年代の元和二年は延寿寺(当時の名前は宝光院)秀船が二代目を襲名した年で、元和二年に実際に跡職相続のために本山へ出向いた記録もあり、また秀船は優れた修験者として知られており、加持祈祷や卜占、護符作成等を積極的に行っていたようなので、そのあたりからこの伝承が生まれたのであろう、とのことでした。

 他にも宝光院由来の修験者をアピールする話は多いようで、狐というよりそれに相対した秀船の強みを知らしめるための話なのだな、ということがよく分かりました。改めて感謝申し上げます。

 なお、この本や神社の方のお話によると、「狐の飯貝」の話は2011年には地元の方が紙芝居にしたとか。「ああ、狐の飯貝な」とスッと話が通ったことも合わせ、地元の現役の話としてしっかり残っているのが印象的な訪問となりました。

 ちなみに、こちらの場所を特定するきっかけとなった向かいの秋葉神社は、本殿の後ろがすぐ海岸というロケーションで、スケール感がおかしくなるようなだだっ広い海岸が目の前に広がっており、琵琶湖の狭い浜に慣れている滋賀県民としてはカルチャーショックを受けるなどしました。これが北陸の海……!


▽龍源寺

 先の金刀比羅神社から歩いてニ十分くらい?のところにあるお寺です。

 こちらには何が伝わっているという話はないのですが、化け猫の話に出てくるんですね。

 

 旧金石町海禪寺町(金石海禅師町)にて、作太郎という魚商が、仁三(じんぞう)という老いた猫を飼っていた。この仁三は、飼い始めた頃からすでに二十数年を経ていた老猫で、年を経るごとに、老婆に扮して踊ったり人の姿で他家に入り込んだりした。

 作太郎が大鯛二尾という注文を受けたが手に入れられず困っていた時には、どこからか見事な鯛を運んできたこともあるが、ある時、隣家の祭壇の食物を盗み、その家の老婆に火箸で腹を刺されてしまって姿を消した。

 その後、老猫は山中温泉で傷を癒やして老婆に復讐しようとした。作太郎の家人の夢に現れた老猫が復讐のことを語ったと聞いた老婆は行いを悔い、龍源寺(金石西)の飯炊きとなって仏恩に縋ったという。
(「金石町誌」より)

 長く飼われていた猫が怪しいことをやるようになるというパターンの化け猫譚です。龍源寺はラストでサラッと出てくるだけで、何が残ったという話でもないんで、まあ物証は何もないだろうなーという失礼な気持ちで訪ねてみたんですよ。するとご住職が仰るには「その話はよく知らないが『猫塚』はある」とのこと。

 で、教えられたとおりに墓地の端に行ってみたら確かにありました。猫塚が。しかも二基も。

 今もちゃんと供養されているようで、塚は綺麗で、最近も線香や花を供えた痕跡もあります。

 が、しかし、これは何を祀ったものなのか……?

 私の知ってる「仁三」の話だと、猫が祀られて終わるわけではないし、どうも別の話に由来してる気がするんですが、今のご住職いわく「先代以前のことなのでよく知らない」とのことで、詳しいことは分かりませんでした。

 今後の調査が期待されます(丸投げ)。

 

▽道入寺

 今回のメインの目的地だったお寺です。

 ここに伝わってるのは皆様ご存じ(決めつけ)、飴買い幽霊譚。

 そもそも金沢は飴買い幽霊伝説が異様に多い土地でして、私の知ってるだけでも二十くらいのバリエーションがあり、「このお寺の墓に出ました」と具体的な場所が入ってるパターンも多い。まあ実際に行くと何もなかったりするんですが、しかしこの道入寺は(たぶん)違う。

 何せ、最古の飴買い幽霊譚の舞台とされるお寺のご住職直々に「金沢の飴買い幽霊と言えば道入寺」と名指しされた場所ですからね。

 ちなみに、ここに伝わってる話はこんな感じです。

 江戸時代、妊娠したまま亡くなった「たみ」という女性は、土葬されてから生まれた赤ん坊のために、毎晩、幽霊となって現れ、板屋という飴屋のところに飴を買いに来ていた。

 飴屋と道入寺(金石西)の六代目の和尚に発見された赤ん坊は「境応」という名を与えられ、道入寺の七代目の和尚となった。

 この境応がある日、寺を宿とした絵の先生に母の話を語り、「母の像を描いて貰えんか」と求めたところ、旅人は幽霊の絵を描いて残していった。この旅人は幽霊画で知られた円山応挙であり、寺に残された絵は涅槃会と旧盆に開帳されている。
(「金沢の昔話と伝説」より)

 これが基本形ですが、他にも……

  • 亡くなった女性の名前が「ゑみ」であるパターン
  • 男児の後の名前が「道玄」であるパターン
  • 飴屋の名前が「油屋」であるパターン

 ……などがあり、また、幽霊の掛軸についても……

 ある夜、とある金貸しのところを訪れた見知らぬボロボロの老婆が置いていったもの。それきり老婆は姿を見せず、掛軸はあまりに恐ろしい絵だったので道入寺へと納められた。

 ……という、飴買い幽霊と一切関係ない形の話も伝わっています。

 ではお寺ではどう伝えられているのか。そもそも件の掛軸はあるのか?

 ご住職にお尋ねしたところ、掛け軸は確かにありますよ、とのことでした。

 毎年3月15日とお盆にご開帳されてるそうで、行ったのが3月12日だったので三日後だったら見られたんですよね。残念!

 なお、こちらのお寺はもともと掛け軸を多く所有しておられ、幽霊以外のものもあるそうなので、掛軸コレクションが先にあってできた話なのかなーとちょっと思ったりもしました。

 ちなみにお寺では「幽霊の本名は宮越寺町の布屋のたみ」「飴屋の名前は『油屋』」「男児は道玄という僧侶となって七代目住職となり、丸山(円山)応挙に幽霊の姿を描いてもらった」という内容のお話を語られているとのこと。

 掛軸が実際に応挙の作品かどうかは不明ですが、ご住職が「伝説だからいろんな話があるもの」「史実半分伝説半分」というふわっとした表現をしておられたのが印象的でした。

 ちなみに先の金刀比羅神社(鏑木家)はここの檀家さんだそうで、鏑木家のお墓は鳥居を擁した独特な形状のものでした。


 最初、入口を間違えて裏の墓地から入ってしまったんですが、お寺の墓地に鳥居がバーンと立ってるから何だこれは?と思ったら、神社の(しかもさっき行ったばかりの神社の)お墓だったという。

 というわけで、成果も多い上に地域の繋がりを感じられる訪問でした。

 

 以下は余談です。この日は金石で見かけたラーメン屋で昼食を食べたんですが、いかにも近所の人がふらっと来る、昔ながらのラーメン屋って感じのお店でして。

チュー 金石店 - 三ツ屋/ラーメン | 食べログ

 メニューにはカツ丼なんかもあるし、キッチンには木製のおかもちが並んでいて出前の人が出入りしており、その光景に「こういうのほんとに今もあるんだ」という感動を覚えたりしました。おかもちってリアルでは初めて見たかもしれない。

 最初はラーメンだけ頼んだんですが、隣のおじいさんの餃子が美味そうだったのでそれも追加で注文しまして、美味かったことです。

軽い気持ちの調べもので難儀した話、あるいは水木しげる先生を信じ切れなかった話

 おかげさまで新刊「少年泉鏡花の明治奇談録 城下のあやかし」が先日発売されました。

 その発売記念というわけでもないですが、あとがきに書ききれなかった執筆中のこぼれ話的なやつを一つ。

 いうまでもなく本作はバキバキのフィクションですが、登場人物の一部や舞台などは実在のものをモチーフにしており、主人公の「少年泉鏡花」こと泉鏡太郎さんも同名の実在の文学者がモデルです。実在された方である以上そのご親族や関係者も実在されていたわけで、そのあたりは史実を踏まえて描写しています。

 で、泉鏡花は何しろ高名な人気作家なので(時代も現代に近いですしね)評伝や研究書の類も多く、その経歴もはっきりしていまして、泉鏡花記念館のサイトにはこんな風に記載されています。

1873年(明治6年)

11月4日、金沢下新町23番地に泉家長男として生まれる。本名鏡太郎。父清次は彫金師、母鈴は江戸生まれ、葛野流大鼓師中田猪之助(万三郎のち豊喜)の娘。

 

泉鏡花 | 泉鏡花記念館

 

 今回の執筆時に引っかかったのがこのお父上、「清次」さんの読み方でした。

 小説の場合、初出の人名にはフリガナを振るのが基本です。で、私の書いた「城下のあやかし」、この清次さんご本人は登場しないんですが、主人公が「清次の息子の鏡太郎です」みたいに名乗るシーンが一回だけあるんですね。

 編集部から戻ってきたゲラ(原稿データを本の体裁に直したものだと思ってください)に、この「清次」にフリガナ付けません?という提案が赤字で入っておりました。人名なんだからそりゃ読み方は分かった方がいいわけで、調べ始めたんです。最初は軽い気持ちで。

 ところがこれが分からない。マニアックな関係者ならともかく、文豪ご本人の父親なので普通に載ってるだろうと思ったんですが、マジで出てこない。

 まず手持ちの資料をざっと見ました。「少年泉鏡花」は今回が二巻目で、私は元々鏡花作品は読んでましたし、以前に書いた本でも話題にしたこともあったので、とりあえず家にはアンソロジーやら不揃いの全集やら評伝やら研究書やら論文のコピーやらがだいたい三十点ちょっとくらいはあります。

 でも「清次」の読み方はどこにも載っていませんでした。

 次にネットで調べてみました。信用できそうなサイトをざっと見る。載ってない。

 そこで次は国会図書館デジタルコレクションの全文検索に頼ることにしました。最近の国会図書館のサイトでは著作権切れの古い本は中身が検索できるようになってるんですね。「泉清次」で全文検索を掛けると、誰でも見られるのが42件、送信サービス対象(これは特定の図書館のパソコンでだけ見られるやつです)314件、国会図書館内限定閲覧が124件ヒットしました。

 まず誰でも見られる42件に目を通したわけですが、またハズレ。どこにも「清次」の読み方は載っていませんでした。

 この辺で段々不安になってきましたが、でもまあさすがに分かってないってことはないだろう、たまたま見た本が悪かっただけだろう、と自分に言い聞かせ、京都府立図書館へ行きました。

 ここなら先述の国会図書館デジタルコレクションの送信サービス対象の約三百件が閲覧できるわけですが……ここでもまた当てが外れました。どこにも載ってない!

 ここで補足しておくと、他の家族の方の読み方はいくらでも普通に載ってるんです。たとえば鏡花の母親の「鈴」さんの読み方が「すず」であることは色んな本に載ってます。

 更に言うと問題の泉清次さんは彫金職人で、仕事をした時に使う「政光」という工名(ペンネームみたいなもんですね)をお持ちだったんですが、これの読み方も「まさみつ」と書いてある資料がちゃんとあります。「まさみつ」にはルビがあるのに同じページの「清次」にはルビがない本もあって、この辺でちょっと怖くなってきました。

 せっかく大きな府立図書館に来ていたので、石川県の人名事典やら各種評伝やら事典やら、あとは鏡花全集の解説なんかも片っ端から見てみましたが、やはり「清次」の読み方は載っていません。

 もう本文のセリフの方を変えようかとも思いましたが(「○○の息子です」と名乗るだけのシーンなので、いくらでも変えようはあります)、レファレンスカウンターで聞いてみたところ、さすが調べもののプロ! 素晴らしい回答をいただきました。

 レファレンス担当の方が見せてくれたのは、科研費助成事業の研究成果報告書でした。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-25370222/25370222seika.pdf

 藤女子大学の種田和加子先生の名前で出されたもので、課題名は「博覧会の時代と泉鏡花」。

 泉鏡花のバックグラウンドとして彫金師の父がいかに関与していたかについてを論じたもので、これのありがたいところは概要の英訳がある点です。「泉清次」に対応するところを見ると、ありました、「Izumi Seiji」の表記が!

 なるほど! 「せいじ」! ありがとうございます! 解決!

 ……と喜んではみたものの、できればこれの根拠も欲しいところです。これだけだと何を参考にしてこう記述したのかが分からない。

 レファレンスカウンターでは「鏡花を扱った子供向けの本とか学習漫画って無いですかね、児童書なら全部にルビがあるかと思うんですが」「うーん」みたいな話もしたんですが、結局ちょうどいい資料は見つけられませんでした。

 で、その帰り道、ふと気付いたわけです。

 もしかして「あれ」に載ってるんじゃないか、と。

 というわけで電車の中でタブレットを取りだして電子書籍アプリを立ち上げ、開いてみました。水木しげる御大著「神秘家列伝」第四巻を!

www.kadokawa.co.jp

「神秘家列伝」は妖怪がかった実在の人物を取り上げた伝記連作で、これの四巻では鏡花も扱われています。もしやと思って見てみると、鏡花の生まれを記したプロローグ部分、「清次」にしっかり「せいじ」とルビが振られていました。あった! やっぱり「せいじ」で間違いないらしい! ありがとうございます水木先生!!

 と喜んではみたものの(二回目)、ここで再び悩んだのも事実です。

 言うまでもなく水木先生のことは尊敬していますし(仕事の上でも大変お世話になっております)(「ゲゲゲの鬼太郎」第6期ノベライズ発売中です)、「神秘家列伝」はしっかり取材して描かれた作品だとも思います。泉鏡花を扱ったエピソードとして、あまり引用されることがない(そして個人的に好きな)「北国空」の雪上臈(雪女)のくだりが入ってるあたり、専門家の知見がちゃんと踏まえられている作品だとは思います。

 思いますが、思うんですが、しかし欲を言えば、他の参考資料が欲しい……!

 

 というわけで最終的に泉鏡花記念館さんにメールでお尋ねしたところ、読み方は「せいじ」で合っていました。曰く、根拠は

……とのことです。

 証書は確認できませんでしたが、記念館の方がそういう証言があると言われるならそうなのだろう!

 というわけで、ようやくルビを振ることができた、という話でした。いやー大変だった。

 余談ですが、図書館司書資格講座の関係者におかれましては、この「泉鏡花の父親の読み方」、レファレンスの例題にちょうどいいと思います。

 

 そしてこっちは後日談ですが、先日、新刊の献本とこの件のお礼を兼ねて泉鏡花記念館に行ってきたところ、展示室に入ったところに飾られている鏡花の生い立ち紹介パネルにも「清次」のルビはありませんでした。他の家族や関係者はだいたいルビ付きなのに。博士これは一体。

泉鏡花記念館と金沢の妖怪スポット(野町・寺町編)回ってきました

 地震の影響でしばらく閉館されていた泉鏡花記念館が先週末から再開館されたので、延期されてた「山海評判記」展を見るべく、あと、新作執筆時に色々お世話になったのでその礼をお伝えしつつ新作を献本するべく、金沢に向かい、(個人的にはお馴染みの場所である)暗がり坂を登り、行ってまいりました、鏡花記念館。

 

 

 どういう具合にお世話になったかは長くなるのでいずれ別の記事にするつもりですが(まさか「あれ」を調べるのがあんなに手間だとは思いませんでした)、まずは再開館おめでとうございます。

 そして「新聞原紙で読む「山海評判記」」展。

「山海評判記」は鏡花の晩年の代表作としてよく出てくる作品で、読んでみるとデティールは面白いし、あの伝説やあの学説をこう使ったのかというところも面白い。昔話だと単なる仇を討ちにくる化け物であるところのムジナの未亡人がやたら格が高くて妖艶になってるあたりは流石鏡花先生だし、その他印象的な場面はいくつもあるんですが、反面、トータルで見るとどう受け止めていいか分からない話でもあり、特別展を見ることで「なるほど、そういう風に要約できるのか……!」と納得してきた次第です。

 なお、鏡花記念館さんのご教示もあって完成した「少年泉鏡花の明治奇談録 城下のあやかし」は来月発売です。「山海評判記」を露骨にオマージュしている場面もあるので、よろしくお願いいたします。

www.poplar.co.jp

 

 で、せっかく金沢に来たので、今回も巡ってきました、金沢妖怪スポット!

 ちなみにこれまでに巡った時の記事はこちら↓です。

金沢行ってきました(妖怪スポット巡り① 市街地編) - 峰守雑記帳

金沢行ってきました(妖怪スポット巡り② 山と川編) - 峰守雑記帳

金沢の妖怪スポットをまた巡ってきました - 峰守雑記帳

 なお、金沢の妖怪伝承をまとめた同人誌「私家版金沢妖怪事典」、通販分は品切れ中ですが、金沢駅構内の書店さんであるところの「うつのみや」百番街店さんの金沢の本コーナーにはまだありました。金沢市立図書館でも読めるのでよろしくお願いいたします。

booth.pm

 今回ぶらついてきたエリアは寺町・野町の一帯。金沢駅から見ると、市内を流れる二大河川の一つ・犀川を越えたあたりです。寺町は名前通りとにかくお寺が多い区域で、お寺にまつわる伝説が多く残っています。

 こちらが寺町の地図。寺院の多さがよく分かります。

 今回は幸い天気も良かったので、犀川大橋のある野町から上流の寺町方面へとぶらぶら歩き、怪談奇談の舞台となっている寺院を回ってきました。

 

▽妙慶寺

 まずは野町の一角、犀川大橋にほど近い古刹であるこちらから。

 

 ここには天狗にまつわる伝承が残っており、「金沢古蹟志」などに記されています。

(以下、引用は基本的に「私家版金沢妖怪事典」より)

 延宝年間(一六七三~一六八〇年)に妙慶寺五世の向誉上人が鳶を子供らから助けたところ、鳶は天狗の使いであるため、その夜に天狗が礼を言いに現れ、火除けのお守りとして爪で「大」「小」の文字を書いた板額を置いていった。

 天狗の残した板額は今も本堂に掛けられており、この寺は「天狗さんの寺」と呼ばれている。妙慶寺が創立以来火難を逃れているのはこの額によると言われ、これを模写したものを火防の守りとして求める人も多い。

 和尚が助けた鳶は天狗の使いではなく天狗本人だったという話もある。

(「金沢古蹟志」他より)

 この話は比較的有名なようで、石川や北陸の伝説を扱った本ではよく見かけます。額が残っているならぜひ見てみたい。

 というわけでお寺の方に話を伺ったところ、額は現存しており座敷に飾ってあるが、座敷は工事中で一般には公開していません、とのことでした。

 現物を見られなかったのは残念ですが、伝承にまつわる遺物が実在しているという話が聞けただけでも嬉しかったりするものです。あることになってる遺物も文献も何一つ残ってないパターンも結構ありますのでね……(伏線)。

 ちなみにこの妙慶寺、「ここにいた僧侶が白山神社の神主に参詣を断られたので激怒して自害し、地震や大雨を引き起こして祟った」とか、「この寺の弟子だった僧侶が近くの川で『産女(うぶめ)』を助けたが、その僧侶は帰宅後倒れて亡くなった」といった、あまりありがたくない系の怪談にも名前が出てきます。

 養壽院という妙慶寺(野町)の僧侶は、白山神社の神主に参籠を拒絶されたことで怒り、元文五年(一七四〇年)五月二十五日に白山の麓の「あくたが淵」に身投げした。その夜、川上で地震や雷光・暴雨が起こり、淵から猛火が躍り上がって東へ飛んでいった。

 また、死後に生前の姿で東武伝通院の卓院長老を訪ね、出迎えた卓院を睨んで消えた。卓院はそれから七日のうちに亡くなり、人々は養壽院の怨霊の仕業だと恐れた。

(「三州奇談」より)

 産女とは出産で死んだ女の亡霊。妙慶寺の弟子の幽運が延宝七年(一六七九年)に犀川橋の川上の堤防を登った時に、髪を乱し、腰から下は血に染まった姿で現れた。「自分はこの世の者ではないので水が欲しい、人がくれる水しか飲めない」と訴えたので、幽運は犀川の水を二、三杯も飲ませた。女は水を飲み、もう思い残すことはないと言い残し、一礼して消えたが、幽運は庵に戻った途端に倒れ、二、三日患って死んだ。

(「咄随筆」より)

 なお、妙慶寺のすぐ近くからは犀川が見下ろせます。行った日は、いかにも北陸らしい曇天が、白山に連なる山々の上に広がっていました。

 

▽千手院

 犀川大橋に通じる大通りに面した細い参道を抜けた先にあるお寺で、名前通り千手観音を祀っていますが、「素麺(そうめん)地蔵」の名で知られる話の舞台でもあります。

 

 野町の千住院に安置されている木彫りの地蔵は、平城天皇の時代(八〇六~八〇九年)、弘法大師がこの地を訪れた際、夢枕に立った地蔵菩薩の言葉を受けて刻んだものと伝わるが、この地蔵は僧に化けて檀家の家を訪れ、素麺を求めたことがある。

 この話を聞いた人たちが、この地蔵が生身の仏か木彫りの像なのかを確かめるために地蔵のヘソに灸をすえたところ、地蔵は泣き、その灸の跡は膿んだという。

 その他、千住院の向かいの蕎麦屋に小僧に化けてしょっちゅう蕎麦を食いにいっては昼寝をしていた、地蔵堂の雨漏りを直すため地蔵が僧侶の姿になって藁をもらいに出歩いたといった話もあるが、ヘソに灸をすえられて泣くというオチはいずれも同じ。この地蔵には実際に涙とヘソの灸の痕跡が残っている。

(「北國新聞」昭和十二年八月二十八日より)

 話のバリエーションは色々ありますが、基本的に自分本位なあたりが憎めない地蔵です。

 記事に「残っている」と書いてある以上、おそらく地蔵は(少なくとも昭和十二年時点では)実在したはずで、現存しているなら是非見たかったんですが、参道の地蔵堂にはそれらしいお地蔵様は見当たらず。お寺もお留守だったために話を聞くこともできませんでした。無念。

 ただ、この千住院、素麺地蔵を抜きにしても、金沢に来た妖怪好きなら是非訪れてほしい場所です。なぜならば参道の入口から通りを挟んだ向かい側にあるんですね、金沢の妖怪を語る上で外せないあれが。

 

 そう! 「天狗ハム」のデカい看板が!

 

 

 ぼくらの! 街の! 天狗ハム!

 金沢の方にとってはお馴染みの、余所者にとってはカルチャーショックな「天狗乃肉」の看板、しかもビッグサイズということで、私は初見の際に十枚くらい写真を撮りました。

 ちなみに天狗ハムこと天狗中田本店はその名の通り天狗を祀る精肉店で、紛うことなき妖怪にまつわる組織なので(言い方)、妖怪愛好家の皆様におかれましては、これを見るためだけにここに来る価値があると言っても過言ではないかもしれないかもしれないような気がします。

「天狗中田本店」は新竪町にある精肉商で、天狗を守り本尊としている。明治四十一年(一九〇八年)に天狗坂を下った先の広見で創業した。創業者の中田氏は義経勧進帳で名高い安宅の出身であり、義経は天狗について修業したところから天狗を祀ったのだという。本店事務室には天狗の面を祀って毎朝神酒等を供え、創業記念日には神職を招き、正月には天狗の掛絵を飾って祝う慣例が守られている。

 なお、天狗坂という地名については不詳だが、天狗が出没した伝説があったものと思われる。かつてここには天狗を屋号とする居酒屋があり、天狗の面の酒杯を用いて酒を飲ませていた。杯の底に鼻があるため卓上に置けず、一気に飲み干すしかなかったので、店は繁盛したという。
(「昔話伝説研究第二号「加賀・能登の天狗伝説考」」より)

 

 

▽西方寺

 このエリアの観光名所であるところの忍者寺こと妙立寺の向かいにあるお寺。立派な動物霊園が併設されています。

 

 さて、金沢というのは「飴買い幽霊」の伝説が大変に多い土地です。

 この「飴買い幽霊」、全国的には「子育て幽霊」の名前の方が有名ですが、要するに妊娠したまま亡くなった女性が土中で出産するという話です。

「墓の中で生まれた子供」というモチーフは日本の怪談や妖怪譚ではド定番のネタで、ここをわざわざ読みにくるような方なら去年の暮れ以来何度も映画館で見たはずですね(決めつけ)。

 なお映画の後日談にあたる6期ノベライズ全5巻は発売中です。

www.poplar.co.jp

 

 閑話休題

 この西方寺に伝わっているのは飴買い幽霊ならぬ「飴買い地蔵」のお話。 

 西方寺(寺町)の墓地の入口に祀られている地蔵は、身重のまま埋葬された女性が墓の中で生んだ赤ん坊を憐れんで、男の姿となって毎晩飴屋に飴を買いに行った。飴屋の主人が男の後を付けたところ、地蔵の前で姿が消えたことで赤ん坊の存在が発覚し、助けられた赤ん坊は後に西方寺の住職となった。

 この地蔵は、削って煎じて飲むと子供の病気が治るとされたため、顔かたちが分からないほどに削られてしまった。

(「金沢の昔話と伝説」より)

 先ほどの素麵地蔵と比べるとだいぶ立派な地蔵ですが、ここにはちゃんと残っておられました。

 

 見事に顔面が完全に削られ尽くしています。

 なおこの西方寺、本堂の本尊脇に九万坊(金沢全域で信仰される天狗です)が祀られているという話もあるのですが、お寺の方がご不在で本堂も施錠されていたので、今も九万坊が祀られているのかは確認できませんでした。

 寺町五丁目の西方寺の本堂の本尊脇には九万坊(天狗)を祀る。住職は「窪の九万坊」こと満願寺山の九万坊と兼務。

(「金沢市史 資料編 一四 民俗」より)

 

▽浄安寺

「亡くなった前妻と比較されてキレた後妻の生霊が前妻の墓を毎晩荒らした」という、「普通は逆じゃない?」と思えてしまうような怪談の舞台となったお寺です。

 ある人が最初の妻を亡くした後に後妻を迎えたが、後妻は事あるごとに前妻と比較されて非難されたため、血の涙を流して悲しみ、やがて病気になった。

 同じ頃、前妻の墓に毎夜十時頃に黒雲がかかり、墓が鳴動し、叫び声が聞こえた。それを聞いた男と和尚が待ち構え、現れた黒雲に切りかかると黒雲は消えたが、そこに後妻が亡くなった知らせが届いた。墓を掘ってみると、前妻の顔あたりが引っ掻いて裂いたようになっており、後妻の生霊が死んでいる前妻に憑いて祟ったものとされた。

 享保十年(一七二五年)に寺町の淨安寺(浄安寺)の納所の僧が語った話。

(「咄随筆」「金沢古蹟志 巻二」より)

 亡くなってなお墓と死体をメチャクチャにされた前妻が不憫ですが、これまた無人だったので話は聞けず。

 そもそも物証が残っている話ではないので、何を見に行ったわけでもないのですが、山門を支える邪鬼?はキュートでした。

 

▽伏見寺

 金沢の地名の由来譚として知られる昔話、「芋掘り藤五郎」伝説ゆかりのお寺です。

 

「芋掘り藤五郎」は、かいつまんで言うと「金の在処を知っていても価値を知らなかった藤五郎が、都会から来た奥さんに金の価値を教えられた……というような話ですが、藤五郎は金で仏像を作ってこの伏見寺に納めたとされており、境内に入ってすぐ左手には藤五郎の墓とされる碑が立っています。

 

 本堂内には藤五郎の像もあるとのことですが、拝観は事前予約制だったので確認できませんでした。

 なお、この藤五郎の伝説には別のバージョンもありまして、そちらでは藤五郎は金と銀と鉄で三体の子牛の像を作って伏見寺に安置したことになっており、この三体の像が三小牛の地名の由来になったとか(「三小牛」は前述の九万坊を祀った黒壁山があるあたりです)、三体の像は毎年の暮れに動いて遊んだとか語られています。

 芋掘り藤五郎は金と銀と鉄の子牛の像を作って伏見寺(寺町)に安置し、これが「三小牛山」の名の由来となった。ある年の除夜には黄・白・黒の三体の犢(こうし)となって藤五郎のところを訪れ、それ以来、除夜には毎年こうやって遊ぶようになった。

(「金沢古蹟志 巻二十」より)

 妖怪好きとしては藤五郎本人よりもむしろこっちが気になるわけで、お寺の方に三体の牛の像はあるのか聞いてみました。

「ないです」

「三小牛の地名の由来になったという話も裏付けはないです」

 ……なるほど。

 まあそういうこともあります。

 というか妖怪ゆかりの場所に行くと、むしろそういうことの方が多いです。大丈夫。

 

▽立像寺

 寺町の一角、犀川に掛かる桜橋から少し上ったあたりにある古刹です。

 

 山門も本堂も鐘撞堂も古くて立派で、本堂は記録が残っている中では金沢市内最古の建物だそうですが、さらにここは金沢の飴買い幽霊伝説の発祥の地とも言われています。

 寛文(一六六一~一六七三年)の末年、犀川の野田寺町の団小屋を青ざめた女が毎夜訪れた。女は毎日二文ずつ持ってきて白餅を買い、団小屋の亭主が後を追うと立像寺(寺町)で消えた。

 先ごろ土葬した妊婦の墓を亭主と住持が掘り起こすと赤子がおり、周りには餅が五つ六つ並んでいた。この赤子は取り上げられて育てられて成人し、貞享四年(一六八七年)には母の十七年忌の作善を行ったという。

「咄随筆」の上巻にある話で、これが金沢における子育て幽霊譚の初出とされる。

 また、女が使ったお金は葉っぱに変わった、お地蔵さんのような小さな墓(石碑)を建てて供養したことで女は成仏した、という話もある。

(「金沢のふしぎな話 「咄随筆」の世界」「金沢の昔話と伝説」より)

 歴史のあるお寺だけあり、裏手の墓地も古く広くて、(先の地震の影響か倒れてしまっているものも多かったですが)近世以前の年号が記された石碑や地蔵も見受けられました。

 

 歴史のあるお寺で、残っている伝承も実に具体的。これは本当に物証があるのではないか。

 というわけでご住職に話を聞いてみました。

「石碑も墓も文献も何も残っていません」

「どこかで勝手にそういう話が出来ただけでしょう」

 ……なるほど。

 ご住職は「何かあれば観光に使います」とも言っておられ、本当に何もないようでしたが、飴買い幽霊のことを調べていると話すとこう仰いました。

「飴買い幽霊なら金石(かないわ)の道入寺に行きなさい」

 …………なるほど。

 いや、道入寺も飴買い幽霊ゆかりのお寺だってことは知ってるんですが、金石って金沢の海の方で、駅からだいぶ遠いんですよね。行くとなるとレンタカー借りるしかないだろうし、今回はちょっと無理です。しかし言われてしまった以上足を運ばないわけにはいかない。

 というわけで、次回、金石探訪編に続きます。多分。更新時期は未定です。

 

発表報告「予言をしなくなった予言獣 誰がいつアマビエを変えたのか」ロングバージョン

(※この記事は、2024年2月17日にオンライン上で開催されたた第141回「異類の会」にて峰守が発表した内容をまとめたものです。短くまとめたものは異類の会のWEBサイトにて公開されていますが、せっかくなのでもうちょっと具体的な長いバージョンをこっちに載せておきます)

 

 2023年12月に刊行された「予言獣大図鑑」の拙稿「予言から疫病退散へ」では、2020年に端を発したコロナ禍を経て、報道や一般書(特に児童書)におけるアマビエの通俗的な性格(属性)が、「予言する妖怪『予言獣』の一種」から「伝統的な疫病退散祈願の対象」へと変質したこと、また、アマビエの疫病退散属性はコロナ禍以降に付加されたものではなく、かねてから存在していた一要素がコロナ禍をきっかけに大きく取り上げられた結果として性格の変質が起こった可能性があることを指摘した。今回は、このアマビエの変質の時期と過程について、主に新聞報道の記述を参考に報告を行った。

 変質の第一波は、2020年2月~4月にかけて起こった。同年2月以降にインターネット上でアマビエが流行する中で「疫病を退散させる妖怪」として扱われるようになったこと、また、その流れを受けて、厚生労働省が4月上旬(この日付については後述する)に「疫病から人々を守るとされる妖怪」として新型コロナウイルス感染拡大防止啓発アイコンに採用したことが、アマビエの変質に大きく関与したと考えられる。

 だが、新聞報道での扱われ方を見る限り、厚労省がアイコンとして採用した時期と、疫病退散妖怪という性格が固定化されていく時期にはズレがある。アマビエに言及した記事は3月から見られるようになるが、この時期から4月頃にかけての記事は、アマビエが疫病退散祈願に使われていることには触れつつも、あくまでアマビエを予言するもの(予言獣)として紹介しているのである。

 もっとも一方で、この時期には、本文ではアマビエを予言獣として扱いつつも、見出しでは「疫病退散の言い伝え」のように疫病退散属性を強調している記事も散見できる。このような齟齬は、「原資料や専門家によるとアマビエは『予言する妖怪』としか言いようがないが、現在ブームになっているのは『疫病を退散させる妖怪』としてのアマビエなのだから、その側面には言及しておきたい」という意識が働いた結果かと思われる。

 さらにこの流れを受けるように、4月初旬~5月上旬頃になると、見出しのみならず記事本文においても「江戸時代、病の流行を封じると信じられた妖怪アマビエ」のように、「アマビエは伝統的な疫病退散祈願のシンボルである」という設定が明記されるようになる。また、予言への言及も減少し、いつの間にか「江戸時代にはアマビエが疫病を封じる妖怪として広く信じられていた」という「史実」が存在したことになってくる。

 この傾向は定着し、5月中旬以降は「アマビエ=伝統的な疫病退散の妖怪」という図式は説明不要の既知の事実として通用するようになっていく。「アマビエは犯罪も封じます」 のような記事見出しからは、アマビエが何を封じる存在なのかは既に周知の事実である、という書き手の意識が窺える。

 2月以降のネット上でのブームを経て、既に通俗的妖怪としてのアマビエの性格は「予言獣の一種」から「伝統的な疫病退散のシンボル」へと変質していたが、それが再確定し、社会に定着したのが、この時期(5月中旬)と言える。

 2020年のアマビエの変質は、まず「新型コロナ収束」という社会的な需要(願望)に応じて偏った認識が広まり、その上で、報道機関が既に社会に広がっていたイメージに合わせた表現を多用してしまったことが念押しとなり、さらに、それらの記事が参照元として活用された結果、「伝統的な疫病退散の妖怪」という性格の固定化が生じたものと考えられる。

 なお、発表後の質疑応答では、厚労省がアマビエをアイコンに採用した日付について、発表者が「2020年4月9日」としていることに対し、「8日以前ではなかったか」との指摘を受けた。後日確認を行ったところ、厚生労働省のWEBサイトにアマビエを採用したロゴが掲載されたのは同年同月7日の深夜で、厚生労働省の公式Twitter(現X)アカウントによる本件の周知が行われたのが9日であった*1。正確には7日時点で採用されていたことになるため、機会があれば訂正を行いたい。

 また、アマビエの変質や社会への定着の過程を見るためには、新聞報道だけではなくワイドショーやニュース等の映像媒体にも気を配るべきとの指摘もあった。活字情報以外の分野の掘り下げ不足は自覚しているところであり、今後の課題と受け止めている。

 質疑応答の中では、変質後のアマビエ像を示す資料として取り上げた児童書の監修者から、同資料の編纂中にアマビエの記述が疫病退散妖怪へと傾いていった過程を具体的に聞くこともできた。このあたりの情報も今後生かしていくこととしたい。

*1:2020.04.09公開のJ-CASTニュースの記事「アマビエ、ついに厚労省に「採用」 若者向け啓発アイコンに: J-CAST ニュース」によると、「コロナ対策本部広報班によると、アイコンは2020年4月7日の深夜に厚労省のウェブサイトに公開された。SNSなどを通じて若者の間に広まっているアマビエを採用することで目を向けてもらい、感染拡大防止に協力してもらうことが狙いという。9日には厚労省ツイッターアカウントでアイコンと共に「STOP!感染拡大」を呼びかけており、「テレビ見ない若い人に興味持って貰うにはぴったりだと思います」といったリプライが寄せられている。」とのこと。

「少年泉鏡花の明治奇談録」第二巻「城下のあやかし」出ます

 昨年の夏に「少年泉鏡花の明治奇談録」という本を出しました。

 幻想文学の大家にして、文明開化・迷信排斥に時代に逆らって怪異を愛した文豪・泉鏡花を題材に、少年時代の鏡花が後の自作のモチーフになるような事件に遭遇していたのかも?という趣向の伝奇ミステリーです(言うまでもなくフィクションです)。

 で、それの二作目が来月出ます、というお知らせです。見本誌も来ました!

www.hanmoto.com

 私のスマホのカメラの画質がよろしくないので写真がぼやけてしまっていますが、赤黒のコントラストが綺麗な表紙となっております。装画は前巻同様榊空也さま。いつもお世話になっております。

(ちなみにこの本、元々は二月発売予定だったのですが、発売日が変わった経緯はこちら↓に書きました)

「少年泉鏡花の明治奇談録」続編刊行についてのお知らせ - 峰守雑記帳

 

 主人公は、私塾に通う受験生でありながら講師も務める秀才であり、怪異と年上の女性をこよなく愛し、格の高い人外の女性に巡り合う日を夢見る少年、泉鏡太郎(後の鏡花)で、相棒役は、鏡太郎と「怪異の噂を教えてくれば受講料の支払いを待つ」「本物の怪異に遭遇できたら受講料は免除する」という約束を交わした私塾の受講生である人力車の車夫・義信。

 二人は金沢近隣で流れる怪しい噂を聞いては首を突っ込んでいくのだが、果たして鏡太郎は本物の怪異に巡り合うことができるのか? という感じのお話です。

 鏡太郎に思いを寄せるものの年下なので全然振り向いてもらえない貸本屋の少女・瀧など、前巻の登場人物も出てきます。

 前巻同様、鏡花の作品を題材にした連作となっておりまして、今回のお題は「海神別荘」「茸の舞姫」「貝の穴に河童の居る事」「竜潭譚」「朱日記」の五編。その他、個人的に大好きな鏡花作品である「海異記」と「女仙前記」「きぬぎぬ川」の要素も入っております。

 ちなみにオフィシャルのあらすじはこんな感じです。

 

時は明治、古都・金沢で過ごす変わり者の美少年・泉鏡太郎。(のちの泉鏡花
おばけ好きな鏡太郎は、人力車夫の義信とともに怪異の噂を調べに行く。
魚の化生ではないかと噂される陸軍少佐夫人、神隠しから帰って来た医者の息子、義信が目撃した河童……など、不思議な噂たちの真相とは……?

そして、ある日、火にまつわる奇妙な噂が、金沢を揺るがす大事件へと発展していく――!

泉鏡花作品を知っている人も知らない人も楽しめる、
大好評の明治怪奇ミステリー、第2弾!

 

泉鏡花作品を知っている人も知らない人も楽しめる」とあるように、元ネタ知ってる鏡花好きの方も、そうでない方も楽しんでいただけるように書いたつもりです。金沢ローカルの妖怪伝承も相変わらずどっさり入っております。3月5日頃に発売されるはずですので、よろしくお願いいたします。

(なお、各巻ごとに話は完結してますのでここから読んでも大丈夫ですが、二巻目では当然ながら前巻の出来事ありきで話が進むため、できれば一巻から順を追って読んでいただけた方が楽しめるとは思います)