先日、新刊「少年泉鏡花の明治奇談録 城下のあやかし」が発売されまして、本作の舞台である金沢近隣の書店さんを回ってサイン本など作らせてもらってきました。
まずこちらは金沢ビーンズ明文堂書店さま。
日本最大級の書籍専門館|金沢ビーンズ-明文堂書店金沢県庁前本店
立派なコーナーに加え、鏡花の経歴のここにフィクションをねじこんでいるぞ!という分かりやすいパネルも作っていただいております。大変品揃えのいい大型書店さんで、個人的に色々買い漁ってきました。
つづいて明文堂野々市店さま。入ってすぐ、新刊コーナーの目立つところに置いていただきました。ありがたい!
ここは新刊以外の予言獣大図鑑や同人誌「私家版金沢妖怪事典」まで並べていただいており、足を向けて寝られません。ポプラ社の営業の方も一緒だったんですが、同人誌の納入の話をして、しかも同人誌に延々サインする時間も取っていただきまして、ほんとありがとうございます。
なお同人誌「私家版金沢妖怪事典」は、こちらの香林坊店と金沢駅構内の百番街店さんで販売中のはずです。現在、私のほうでは通販は行っておりませんので、お求めの際はそちらをご利用くださいませ。
あと、ここは金沢ではないですが、私の地元の滋賀県高島市の平和書店あどがわ店さまの地元作家コーナーにもドカッと並べていただいてましたので、あわせて紹介いたします。
新刊に加え、同レーベルの「今昔ばけもの奇譚」「金沢古妖具屋くらがり堂」シリーズ、さらには結構前の「学芸員・西紋寺唱真の呪術蒐集録」や「うぐいす浄土逗留記」もあるのが嬉しい限り。
写真には載ってないですが色紙も飾っていただきました。場所は道の駅のはす向かいで、郷土資料も充実してるお店なので、行楽のついでなどに立ち寄るのもおすすめです。
閑話休題。
というかここからが本題です。
これまでも金沢に来る度に妖怪がかった場所を巡ってきましたが(こちらが前回の記録です)、性懲りもなく今回も行ってきました。
今回の目的地は金石(かないわ)エリア!
金沢市中心部から見て西方向、海に面した地区である金石は、1943年に金沢市に編入された地域です。そもそも私が金沢の妖怪を集め始めたのは「少年泉鏡花の明治奇談録」のネタ探しのためで、この作品の舞台である明治時代には金沢じゃなかったんですが、今の基準でリストアップしたおかげで「私家版金沢妖怪事典」にはしっかり入ってます。
できればじっくりウロウロしたいところですが、余り時間も取れなかったので、場所を特定できるところを三か所だけピンポイントで回ってきました。
さて、これまでの記事でも書きましたが、この手の妖怪現地探訪って当てが外れることが基本です。
話の舞台とされてる場所や施設には実際は何も残ってないし、話を聞いてみても「そもそもそんな伝説は知らない」とか「伝説があるのは知ってるけど、うちには何もないですよ」と言われるパターンがまあ多い。
なので今回も正直そんな期待せずに行ってみたんですが……すみませんでした。金石は凄かった。
結果から先に言ってしまうと、訪問先の三か所全部に何かしらが残っており、話もしっかり伝わっていました。さらにこっちが知らないネタまで見つかったので、妖怪残存率133パーセントということになります。すごいぞ金石!
海のすぐ近くにある小さな神社です。
「私家版金沢妖怪事典」にはこの神社の名前は出てきてないんですが、このあたりにはこういう話が伝わっております。
秋葉神社(金石西)と向かい合って建つ延寿寺の鏑木氏の家には、「狐の飯蓋(めしかい)」という、小さくて鉛色をした石のような硬いものが伝えられている。
これは元和二年(一六一六年)、修行の旅に出た延壽寺二代目の秀船坊が、ある雨の夜に九州で出会った白狐から譲り受けたもの。狐が「私のこの飯蓋(飯茶碗)は不思議な力を持っている、命より大事なものですが、貴僧のそれ(傘)と取り替えてほしい」と頼み込んだので、秀船坊は傘と飯蓋を取り替えて金石へと持ち帰った。
その後、飯蓋を手放して神通力を失った白狐は飯蓋を取り戻そうとして、何度も鏑木家の天窓から忍びこもうとしたため、秀船は天窓を閉ざした。これ以来、鏑木家では天窓を開けることはなく、改築しても天窓を設けなくなった。飯蓋は狐の祟りを恐れて床下深くに埋められたという。
(「北國新聞」昭和五年七月二十三日より)
白狐が何をしたいのかよく分からないし、飯貝がどういうものなのか(茶碗なのか石なのか?)もよく分からないという、つかみどころのない話です。
正直、行く前から、ここは何もないだろうなーと思ってたんですよね。何せ、地図で見ると、金石西の秋葉神社の向かい側にお寺なんか無いんです。
で、実際に行ってみてもやっぱりない。あるのは金刀比羅神社という神社だけ……だったんですが、社務所兼ご自宅の表札が「鏑木」さんだったんですね。
話に出てくる家と同じ名前で、ついでに言うと、ざっと拝見する限り、家には天窓の類もない。これはもしかして……と思って神社の方に尋ねてみると、ビンゴでした。
こちらの金刀比羅神社、元は延寿寺というお寺で、しかも狐の飯貝(※私の「金沢妖怪事典」では「飯蓋」と表記しましたが、神社の方は「飯貝」の字を使われてました)の話もこの家に確かに伝わっているとのこと。ワオ!
さらに聞くと、この地域にはそういうことに詳しい方もいるし、詳しく書いた本もあるが、その本は今ちょっとどこにあるか分からんのよ……とのことだったので、「じゃあ図書館で探してみます、ありがとうございました」とお伝えして、名詞もお渡しして神社を後にしたんですが、そのニ十分後くらいに神社から電話がかかってきたわけです。
「さっき言ってた本があったが、私はもうすぐ出かけなあかん」「今すぐ来られるか?」とのこと。そんなこと言われたら行くしかないわけで、雨の中(当日はまあまあ悪い天候でした)を、折り畳み傘を構えながらダッシュしまして、そこで見せてもらったのが「能登の宗教・民族の生成」という本でした。
こちらに掲載されている鏑木紀彦さんの「能登国石動山大蔵坊の里修験 ―加賀国宝光院(延寿寺)の事跡から―」によると、延寿寺はもともと修験道の道場だったのが江戸時代中期に延寿寺と改称、明治元年の神仏分離令により延寿寺は金刀比羅神社になったが、今も修験的な性格を持っている、とのことでした。なるほど!
つうか、ということは「狐の飯貝」の記事が新聞に載った昭和五年だったら、とっくに延寿寺は金刀比羅神社になってたはずで、なんで記事には古い名前で載せてるんだよ!とは思いました。
「狐の飯貝」自体については、私が見たのと同じ記事を引用されていただけだったので情報量は増えることはなく、飯貝が実在するかどうかにも触れられていませんでした。ちょっと残念。
しかしさすがに地元の専門家の文章だけあって周辺情報が詳しく補足されており、説話の設定年代の元和二年は延寿寺(当時の名前は宝光院)秀船が二代目を襲名した年で、元和二年に実際に跡職相続のために本山へ出向いた記録もあり、また秀船は優れた修験者として知られており、加持祈祷や卜占、護符作成等を積極的に行っていたようなので、そのあたりからこの伝承が生まれたのであろう、とのことでした。
他にも宝光院由来の修験者をアピールする話は多いようで、狐というよりそれに相対した秀船の強みを知らしめるための話なのだな、ということがよく分かりました。改めて感謝申し上げます。
なお、この本や神社の方のお話によると、「狐の飯貝」の話は2011年には地元の方が紙芝居にしたとか。「ああ、狐の飯貝な」とスッと話が通ったことも合わせ、地元の現役の話としてしっかり残っているのが印象的な訪問となりました。
ちなみに、こちらの場所を特定するきっかけとなった向かいの秋葉神社は、本殿の後ろがすぐ海岸というロケーションで、スケール感がおかしくなるようなだだっ広い海岸が目の前に広がっており、琵琶湖の狭い浜に慣れている滋賀県民としてはカルチャーショックを受けるなどしました。これが北陸の海……!
▽龍源寺
先の金刀比羅神社から歩いてニ十分くらい?のところにあるお寺です。
こちらには何が伝わっているという話はないのですが、化け猫の話に出てくるんですね。
旧金石町海禪寺町(金石海禅師町)にて、作太郎という魚商が、仁三(じんぞう)という老いた猫を飼っていた。この仁三は、飼い始めた頃からすでに二十数年を経ていた老猫で、年を経るごとに、老婆に扮して踊ったり人の姿で他家に入り込んだりした。
作太郎が大鯛二尾という注文を受けたが手に入れられず困っていた時には、どこからか見事な鯛を運んできたこともあるが、ある時、隣家の祭壇の食物を盗み、その家の老婆に火箸で腹を刺されてしまって姿を消した。
その後、老猫は山中温泉で傷を癒やして老婆に復讐しようとした。作太郎の家人の夢に現れた老猫が復讐のことを語ったと聞いた老婆は行いを悔い、龍源寺(金石西)の飯炊きとなって仏恩に縋ったという。
(「金石町誌」より)
長く飼われていた猫が怪しいことをやるようになるというパターンの化け猫譚です。龍源寺はラストでサラッと出てくるだけで、何が残ったという話でもないんで、まあ物証は何もないだろうなーという失礼な気持ちで訪ねてみたんですよ。するとご住職が仰るには「その話はよく知らないが『猫塚』はある」とのこと。
で、教えられたとおりに墓地の端に行ってみたら確かにありました。猫塚が。しかも二基も。
今もちゃんと供養されているようで、塚は綺麗で、最近も線香や花を供えた痕跡もあります。
が、しかし、これは何を祀ったものなのか……?
私の知ってる「仁三」の話だと、猫が祀られて終わるわけではないし、どうも別の話に由来してる気がするんですが、今のご住職いわく「先代以前のことなのでよく知らない」とのことで、詳しいことは分かりませんでした。
今後の調査が期待されます(丸投げ)。
▽道入寺
今回のメインの目的地だったお寺です。
ここに伝わってるのは皆様ご存じ(決めつけ)、飴買い幽霊譚。
そもそも金沢は飴買い幽霊伝説が異様に多い土地でして、私の知ってるだけでも二十くらいのバリエーションがあり、「このお寺の墓に出ました」と具体的な場所が入ってるパターンも多い。まあ実際に行くと何もなかったりするんですが、しかしこの道入寺は(たぶん)違う。
何せ、最古の飴買い幽霊譚の舞台とされるお寺のご住職直々に「金沢の飴買い幽霊と言えば道入寺」と名指しされた場所ですからね。
ちなみに、ここに伝わってる話はこんな感じです。
江戸時代、妊娠したまま亡くなった「たみ」という女性は、土葬されてから生まれた赤ん坊のために、毎晩、幽霊となって現れ、板屋という飴屋のところに飴を買いに来ていた。
飴屋と道入寺(金石西)の六代目の和尚に発見された赤ん坊は「境応」という名を与えられ、道入寺の七代目の和尚となった。
この境応がある日、寺を宿とした絵の先生に母の話を語り、「母の像を描いて貰えんか」と求めたところ、旅人は幽霊の絵を描いて残していった。この旅人は幽霊画で知られた円山応挙であり、寺に残された絵は涅槃会と旧盆に開帳されている。
(「金沢の昔話と伝説」より)
これが基本形ですが、他にも……
- 亡くなった女性の名前が「ゑみ」であるパターン
- 男児の後の名前が「道玄」であるパターン
- 飴屋の名前が「油屋」であるパターン
……などがあり、また、幽霊の掛軸についても……
ある夜、とある金貸しのところを訪れた見知らぬボロボロの老婆が置いていったもの。それきり老婆は姿を見せず、掛軸はあまりに恐ろしい絵だったので道入寺へと納められた。
……という、飴買い幽霊と一切関係ない形の話も伝わっています。
ではお寺ではどう伝えられているのか。そもそも件の掛軸はあるのか?
ご住職にお尋ねしたところ、掛け軸は確かにありますよ、とのことでした。
毎年3月15日とお盆にご開帳されてるそうで、行ったのが3月12日だったので三日後だったら見られたんですよね。残念!
なお、こちらのお寺はもともと掛け軸を多く所有しておられ、幽霊以外のものもあるそうなので、掛軸コレクションが先にあってできた話なのかなーとちょっと思ったりもしました。
ちなみにお寺では「幽霊の本名は宮越寺町の布屋のたみ」「飴屋の名前は『油屋』」「男児は道玄という僧侶となって七代目住職となり、丸山(円山)応挙に幽霊の姿を描いてもらった」という内容のお話を語られているとのこと。
掛軸が実際に応挙の作品かどうかは不明ですが、ご住職が「伝説だからいろんな話があるもの」「史実半分伝説半分」というふわっとした表現をしておられたのが印象的でした。
ちなみに先の金刀比羅神社(鏑木家)はここの檀家さんだそうで、鏑木家のお墓は鳥居を擁した独特な形状のものでした。
最初、入口を間違えて裏の墓地から入ってしまったんですが、お寺の墓地に鳥居がバーンと立ってるから何だこれは?と思ったら、神社の(しかもさっき行ったばかりの神社の)お墓だったという。
というわけで、成果も多い上に地域の繋がりを感じられる訪問でした。
以下は余談です。この日は金石で見かけたラーメン屋で昼食を食べたんですが、いかにも近所の人がふらっと来る、昔ながらのラーメン屋って感じのお店でして。
メニューにはカツ丼なんかもあるし、キッチンには木製のおかもちが並んでいて出前の人が出入りしており、その光景に「こういうのほんとに今もあるんだ」という感動を覚えたりしました。おかもちってリアルでは初めて見たかもしれない。
最初はラーメンだけ頼んだんですが、隣のおじいさんの餃子が美味そうだったのでそれも追加で注文しまして、美味かったことです。